「ちはやふる」という掛け声が、今も響く街がある。
— 府中・大津・あわら、競技かるたが結ぶ3つの街
正直に言うと、わたしは競技かるたのルールを『ちはやふる』で初めて覚えた口だ。「決まり字」も「お手つき」も知らなかった。それが今では、正月に名人戦・クイーン戦の中継を見ると反射的にちはやと新と太一を思い出す。1つの少女漫画が、実在する競技の全国的な認知度を本当に押し上げた——これは大げさな物言いではなく、3つの街の公式サイトがそのまま証言している。
この記事で辿る3つの街
- 東京都府中市・滋賀県大津市・福井県あわら市。主人公の原風景、実在の大会会場「かるたの聖地」、そして「もう一人の主人公」の故郷——3つの街が、それぞれ異なる立場で作品と関わっている。
- この記事で扱うのはすべて神社仏閣・観光協会公式・自治体公式コラボ・美術館の取り組み。私有地・学校・生活空間には立ち入らない。
- 府中市は観光協会公式のガイド動画、大津市は「かるたの聖地」としての公式発信、あわら市は2014年から続く自治体公式コラボレーション——3つの街で温度も歴史の長さも違う。
はじめに — なぜ「かるた」の物語が、3つの街を動かしたのか
『ちはやふる』は、競技かるたという実在する競技を題材にした末次由紀氏の作品だ。2007年からの連載で特異なのは、フィクションでありながら「競技かるたの普及」という現実の効果を伴ってきたこと。全日本かるた協会が名人位・クイーン位決定戦の会場として使う近江神宮(滋賀県大津市)は、作品によって「かるたの聖地」という呼び名が広く定着した場所として、大津市自身が公式に紹介している。
わたしがこの作品を好きな理由は、実はストーリーの恋愛模様よりも先に、「本気で何かに打ち込む人の顔」が丁寧に描かれることにある。ちはやが札を取る瞬間の表情、新が読み手の声に集中する瞬間——あの一瞬の静止画のような緊張感をコマで見せられると、こちらの息も止まる。3つの街を巡ると、その「本気」が実在の場所や実在の大会と地続きになっていることに気づかされる。
第一章 府中市(東京都) — 主人公の原風景、公式ガイドが案内する街
ちはやが育つ風景のモデルとされるのが東京都府中市だ。府中観光協会は公式サイトで「オンラインで『ちはやふる』の聖地巡礼」という特設ページを設け、公式の紹介動画を配信している。この動画は主人公・綾瀬千早の声優・瀬戸麻沙美氏が案内役を務めるという、かなり気合の入った公式企画だ(府中観光協会公式)。
動画やページで案内されているのは、大國魂神社やけやき並木といった公共の街並みだ。大國魂神社は武蔵国の総社として知られ、5月の「くらやみ祭」でも名高い実在の神社で、作中にも登場する。
府中市の面白いところは、観光協会が「観光プロモーション」という明確な立場でこの企画を打ち出している点だ。聖地巡礼をファンの自然発生的な行動として放置するのではなく、公式ガイドとして設計し直している。これは大洗町や、後述するあわら市に近い、行政・観光協会側からの歩み寄り方だと思う。
第二章 大津市(滋賀県) — 近江神宮という、実在する「かるたの聖地」
物語のクライマックスの舞台であり、この記事で一番熱を込めて書きたいのが近江神宮(大津市)だ。ここは天智天皇を祭神とする神社で、小倉百人一首の第1番の歌の作者が天智天皇であることにちなみ、実際に全日本かるた協会の名人位・クイーン位決定戦の会場になっている。作中のクイーン戦の舞台としても描かれるが、これは「フィクションが現実の大会会場をそのまま使っている」というめずらしいケースだ。
大津市は公式サイトで近江神宮を「かるたの聖地」として明確に位置付けており、『ちはやふる』のロケ地として有名になったことも市自身が紹介している(大津市公式サイト)。
わたしが胸を打たれるのは、この関係が「作品が街を利用した」のではなく「実在する大会がそのまま作品の舞台になり、作品が大会の知名度を押し上げた」という、循環している点だ。近江神宮・近江勧学館では例年1月に名人位・クイーン位決定戦が実際に開催されている(全日本かるた協会公式)。フィクションの熱量と、実際に今この瞬間も畳の上で戦っている選手たちの熱量が、同じ場所で共存している。
第三章 あわら市(福井県) — 「もう一人の主人公」の故郷が育てた、10年以上のコラボ
3つの街の中で、もっとも「自治体主導の継続」が際立つのがあわら市だ。作中の重要人物・綿谷新の故郷という設定にちなみ、あわら市は2014年から作品との公式コラボレーションを続けてきた。これは講談社のマンガIP活用事例としても紹介されている、10年以上続く自治体公式の協働だ(講談社マンガIPサーチ)。
あわら市では、作中で千早と新が再会する場面のモデルとされる桜並木が「あらた坂」と命名され、記念碑も建てられた。金津創作の森美術館では原作者・末次由紀氏の原画展も開催されている。北陸新幹線の延伸開業に合わせて新しいイラストが描き下ろされたことも、公式の発信に記載がある。
正直に言うと、わたしはあわら市についてはこの記事を書くまで詳しく知らなかった。だから知ったかぶりはしない。ただ、10年以上ひとつの作品とコラボを続けるという継続力そのものに、素直に驚いている。ファンイベントは一過性の盛り上がりで終わることも多い中、あわら市はこれを地域の定番企画として定着させている。
3つの街を歩いてわかること — 「本気で打ち込む」がなぜ街を動かすのか
府中は「主人公の原風景」、大津は「実在する大会の会場」、あわらは「登場人物の故郷」——この3つの街は、作品との関わり方がそれぞれ異なる。府中は観光協会が公式動画で丁寧にガイドし、大津は実在の競技大会と作品が地続きになっており、あわらは10年続く自治体主導のコラボレーションを育ててきた。
競技かるたという、決して知名度が高いとは言えなかった実在の競技を、この作品が全国区に押し上げた。フィクションが現実の文化・競技そのものの認知度に影響を与えた事例として、『ちはやふる』は推し活と地域の関係を考えるうえで、かなり特殊な位置にあると思う。
住民が今も暮らす街であることについて
この記事で紹介した施設は、大國魂神社、近江神宮・近江勧学館、金津創作の森美術館、あらた坂の記念碑など、いずれも神社仏閣・公共施設・観光協会公式企画であり、住民の生活空間そのものではない。ただし、府中市・大津市・あわら市はどの街も、観光地である以前に人が実際に暮らし、働いている街だ。大國魂神社は今もこの街の氏神であり、近江神宮は今も地域の人々が参拝する神社であり、あわら市の桜並木は地域の暮らしに面している。作品のファンとしてこれらの街を訪れる時は、そこが誰かの日常の場であることを、まず胸に置いてほしい。この記事はスポットの地図でも行き方ガイドでもなく、そのことを踏まえた上で書いた読み物だ。
この物語に、もう一度ふれる
原作コミックスで、アニメで、映画で。読み手の声と、札が畳を打つ音を思い出しながら。