国宝の天守は、五つしかない。
— 姫路・松本・犬山・彦根・松江、五つの城が守ってきた「証拠」の物語
日本には、天守そのものが国宝に指定されている城が、姫路・松本・犬山・彦根・松江のたった五つしかない。しかも国宝という称号は、一度授かれば永遠のものではない。松江城は63年間、重要文化財に格下げされたままだった。犬山城の建造年代は2021年まで諸説あるままだった。国宝は完成した勲章ではなく、今も更新され続けている証拠の記録だ。五つの天守を、認定の根拠から辿った記録。
この記事の結論(3行)
- 天守そのものが国の重要文化財ではなく「国宝」に指定されている城は、日本に姫路城(姫路市)・松本城(松本市)・犬山城(犬山市)・彦根城(彦根市)・松江城(松江市)の五つしかない。
- 国宝の認定は一度きりの称号ではない。松江城は1950年に重要文化財へ格下げされた後、2012年発見の祈祷札を決め手に2015年、63年ぶりに国宝へ戻った。犬山城も2021年の年輪年代法調査で建造年代の諸説に決着がつき、現存天守で最古級と判明した。
- 彦根城は明治11年(1878年)に解体寸前だったと伝わり、犬山城は2004年まで101年間、成瀬家という一個人が国宝の城を所有していた。五つの天守は、それぞれ紙一重の経緯でここまで残っている。
まず結論——国宝の天守は、日本にたった五つしかない
江戸時代以前に建てられた天守が今も残る城は全国に12あるが、そのうち天守そのものが国宝に指定されているのは、姫路城・松本城・犬山城・彦根城・松江城の五つだけだ。天守が現存していることと、それが国宝であることは、同じではない。「現存12天守」は城好きの間で使われる通称に過ぎず、公式な指定区分ではない。一方「国宝」は文化財保護法に基づき、国が「たぐいない国民の宝」と認めた建造物にだけ与えられる称号だ。姫路市・松本市・犬山市・彦根市・松江市——この五つの街だけが、今その称号を持つ天守を抱えている。
そしてこの記事で一番伝えたいのは、国宝が「一度決まったら終わり」の称号ではないということだ。五つの天守のうち少なくとも二つは、国宝であり続けるための証拠を、後から突きつけられている。松江城は一度その座を失い、63年後に取り戻した。犬山城は「現存最古」かどうかの諸説に、つい数年前まで決着がついていなかった。国宝の看板の裏側には、今も更新され続けている調査の歴史がある。五つの街を、認定の根拠から辿ってみたい。
姫路城(姫路市)は、国宝であり、世界遺産でもある——ただし別の理由で
姫路城は1951年、天守群8棟が国宝に指定された。その42年後の1993年には、法隆寺とともに日本で最初の世界文化遺産にも登録されている。だがこの二つの称号は、まったく別の基準で与えられたものだ。姫路市の姫路城は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守と、それらをつなぐ4棟の渡櫓、あわせて8棟が昭和26年(1951年)6月9日に国宝指定を受けた。白漆喰で塗り込められた優美な外観から「白鷺城」とも呼ばれ、現存12天守の中でも最大規模を誇る。
その姫路城が世界遺産に登録されたのは、国宝指定からさらに42年後の1993年12月のことだ。国宝は文化財保護法に基づく「国内向け」の価値づけであるのに対し、世界遺産はユネスコが「人類共通の遺産」として登録する国際的な枠組みで、審査の基準も主体もまったく異なる。姫路城は両方の網を同時にくぐり抜けた、5城の中でも突出した事例だ。天守群を下から見上げると、白い壁と入り組んだ屋根の重なりが、防御の建築でありながら美術品のようにも見える。この二重の称号は、姫路という街が積み重ねてきた保存の歴史そのものでもある。
松本城(松本市)は、平地に建つ唯一の国宝天守だ
松本城は昭和27年(1952年)、天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定された。現存する五重六階の天守としては日本最古で、しかも平城に建つ国宝天守は松本城だけだ。松本市の松本城は、山や丘の上ではなく平地に築かれた「平城」でありながら、五重六階という大規模な天守を持つ。五重の天守が現存するのは姫路城とここだけで、その中でも松本城は最古とされている。黒漆塗りの下見板が特徴的な外観から、姫路城の「白」に対して「烏城」と呼ばれることもある。
防御に有利な高台ではなく、あえて平地に巨大な天守を築いた点は、この城が戦国末期から江戸初期にかけての築城技術の転換点にあったことを示している。松本城の周囲には堀と北アルプスの山並みが同時に見え、天守の黒と背後の山の稜線が重なる景色は、松本市が観光資源として繰り返し紹介してきた光景だ。国宝という一次的な認定の下に、こうした立地の特殊性という二次的な物語が重なっている。
犬山城(犬山市)は、101年間、一個人が所有していた国宝だ
犬山城は昭和27年(1952年)3月29日に天守が国宝指定を受けたが、その後も2004年まで、成瀬家という一つの家がこの国宝を個人で所有し続けていた。しかも建造年代をめぐる諸説には、2021年の科学調査までようやく決着がついていない。犬山市の犬山城は、明治36年(1903年)から城主・成瀬家の個人所有となり、平成16年(2004年)に27代当主が亡くなるまでの101年間、国宝でありながら一個人の持ち物であり続けた、五城の中で唯一の例だ。現在は公益財団法人犬山城白帝文庫が所有・管理している。
もう一つの特徴が、建造年代の謎だ。犬山城天守は長らく天文6年(1537年)説と慶長6年(1601年)説という新旧二つの説の間で決着がついていなかったが、令和3年(2021年)の年輪年代法による調査で、天正13〜18年(1585〜1590年)頃に一階から四階までが一連で建てられたことが判明した。この調査結果によって、犬山城は現存天守の中でも最古級という評価を得ている。国宝は指定された瞬間で歴史が確定するわけではなく、後からの調査で由来そのものが書き換えられることがある——犬山城はその代表例だ。
彦根城(彦根市)は、解体の足場が組まれた翌日に救われたと伝わる
彦根城は昭和27年(1952年)に天守と附櫓・多聞櫓が国宝に指定されたが、その74年前の明治11年(1878年)には、解体のための足場まで組まれていたと伝わる。誰が保存を決めたのかは、今も一つの説に定まっていない。彦根市の彦根城は、明治維新後の廃城令で多くの城が解体される中、老朽化を理由に取り壊しが決まり、実際に足場まで組まれていたという。転機になったのは同年10月、北陸巡幸からの帰路にあった明治天皇の彦根訪問だった。
この時、随行していた大隈重信が保存を進言したという説と、井伊家にゆかりのある人物が別途嘆願したという説の両方が伝わっており、どちらが決め手だったのかは史料上、断定できない。本文でも諸説として扱うが、確かなのは、あと一歩遅ければ彦根城が現存していなかった可能性があるということだ。天守の破風が左右非対称に組まれた独特の外観は、そうした際どい保存の歴史を経てきた城とは思えないほど、涼しい顔で今も彦根の街を見下ろしている。
松江城(松江市)は、二枚の木札で63年ぶりに国宝へ戻った
松江城は昭和10年(1935年)に一度国宝となったが、昭和25年(1950年)の法改正で重要文化財へ格下げされた。その称号を取り戻したのは2015年、決め手になったのは2012年に城内の神社で見つかった二枚の木札だった。松江市の松江城天守は、旧国宝保存法の下で一度は国宝に指定されていたが、昭和25年(1950年)に文化財保護法へと法律が切り替わった際、いったん重要文化財という区分に置き直された。
その後、市民と行政による長年の調査が続く中、平成24年(2012年)、天守にかつて供えられ行方不明になっていた「慶長十六年(1611年)」の銘が入った祈祷札2枚が、城内の神社で発見された。これが天守の完成時期を裏づける決定的な証拠となり、平成27年(2015年)7月8日、松江城は63年ぶりに国宝へと指定し直された。木造の柱を2階ごとに交互に通して荷重を支える「通し柱」という構造上の価値も、再評価の理由の一つとされている。国宝という称号が、たった二枚の木札によって取り戻された例は、五城の中でも松江城だけだ。
五つの天守は、認定が終わりではなく更新であることを教えてくれる
姫路城の8棟、松本城の5棟、犬山城の1棟、彦根城の2棟、松江城の1棟——数え方は城ごとに違うが、いずれも「国宝」という同じ最上位の称号を、それぞれ紙一重の経緯を経て今に伝えている。姫路城は世界遺産という別の称号まで重ねて得た一方、松江城は一度その座を失い、二枚の木札で取り戻した。犬山城は101年間一個人の所有物であり続け、建造年代の謎は2021年までくすぶり続けた。彦根城は解体の足場が組まれた翌日を境に、今の姿を保ち始めた。
五つの天守を訪ねて感じるのは、国宝という言葉の強さと同時に、その言葉が実は静止していないということだ。認定は誠実に強い根拠だが、その根拠自体が、調査や発見によってこれからも書き換えられていく。次にどれかの天守を訪れる時は、目の前の柱や梁が「今のところ、これが国宝である証拠」として立っていることを、少しだけ思い出してみてほしい。私はいつも、天守の中で一番古そうな柱を見上げながら、そう考えている。