大津の聖地は、近江神宮だけじゃない。
— 『成瀬は天下を取りにいく』が膳所に積み重ねた、もう一つの巡礼
大津市の近江神宮は、『ちはやふる』が育てた「かるたの聖地」として、大津市の公式サイトにも位置付けられている。同じ大津に今、アニメも実写も一本も経ないまま、本屋大賞受賞と舞台化だけで生まれた、もう一つの聖地がある——膳所だ。二つの聖地がどう棲み分けているのかを、巡田コトが歩く。
この記事の結論(3行)
- 大津市の近江神宮は『ちはやふる』が育てた「かるたの聖地」として大津市公式にも位置づけられている。同じ大津に、アニメも実写も経ないまま本屋大賞受賞と舞台化だけで生まれた、もう一つの聖地がある——膳所だ。
- 成瀬あかりの聖地は近江神宮ではなく、彼女が毎日通った膳所の「西武大津店」跡地(2020年閉店・現 Oh! Me大津テラス)。滋賀県は2024年春、市内13カ所を巡る公式スタンプラリーを実施した。映像化ゼロで起きた聖地巡礼だ。
- 続編で成瀬は京都大学(左京区)へ進学し、聖地は大津から京都へ物語ごと広がる。舞台版は2026年7月28-29日に大津市民会館で千秋楽。近江神宮はかるた、膳所は成瀬——一つの街が由来の違う二つの巡礼先を静かに同居させている。
大津には、すでに「聖地」と呼ばれる場所がある
大津市の近江神宮は、『ちはやふる』が育てた「かるたの聖地」として、大津市自身が公式サイトで位置付けている実在の場所だ。近江神宮は天智天皇を祭神とする神社で、全日本かるた協会の名人位・クイーン位決定戦の実際の会場でもある。『ちはやふる』の作中でもクイーン戦の舞台として描かれ、大津市はこの神社を公式に「かるたの聖地」と呼んできた(この作品と大津市の関係は、姉妹記事「『ちはやふる』という掛け声が、今も響く街がある。」で詳しく書いた)。
この事実は動かないし、動かすつもりもない。今回書きたいのは、その近江神宮とは別の場所——大津市に、由来のまったく違う、もう一つの聖地が積み重なっていたという話だ。
もう一つの聖地は、近江神宮ではなく膳所にある
成瀬あかりが聖地になったのは、近江神宮ではなく、彼女が毎日通った膳所の「西武大津店」跡地だ。2023年3月刊行、宮島未奈の連作短編集『成瀬は天下を取りにいく』で、主人公・成瀬あかりが「この夏を捧げる」と宣言して通い詰めるのが、コロナ禍の2020年に閉店した実在の百貨店・西武大津店。跡地の商業施設「Oh! Me大津テラス」には成瀬の等身大パネルと、劇中でアルバイト先になる「フレンドマート大津テラス店」の制服が今も置かれ、借りて撮影できる。
物語の舞台として明記されているのは西武大津店・膳所・琵琶湖・作中の小学校で、著者本人が「小説でも登場します」と語る琵琶湖汽船のミシガンクルーズも、実在の遊覧船としてページの中に描かれている。膳所の「ときめき坂商店街」も、成瀬の地元感を伝える実在の通りとして各種紹介記事に登場する。近江神宮のような一点集中の聖地とは違い、成瀬の聖地は膳所という「面」で積み重なっている。
この聖地に、アニメは一本も要らなかった
成瀬シリーズの聖地化に、アニメは一本も関わっていない。2023年の刊行から2024年本屋大賞・第39回坪田譲治文学賞のダブル受賞、シリーズ累計63万部突破(2024年4月時点、報道値)まで、映像化はゼロだった。それでも滋賀県は2024年春、大津市内13カ所を巡る「この春を成瀬にささげるスタンプラリー」を公式実施し、担当者は「予想以上」の反応があったと明かした。地域通貨「ビワコ」まで配られる本気度だ。
アニメツーリズム協会の「アニメ聖地88」は、そもそもアニメ作品を対象にした認定制度なので、成瀬シリーズはその枠の外にある。それでも起きていることは、紛れもなく聖地巡礼だ。認定の有無と、街とファンが実際に築いた関係は、別の軸で測るべきものだと思う。
続編が、聖地を京都へ連れていった
続編を読み進めると、聖地は大津市から京都市左京区へと物語ごと広がっていく。2024年1月刊行の続編『成瀬は信じた道をいく』、そして2025年12月刊行の完結編『成瀬は都を駆け抜ける』で、成瀬あかりは京都大学に進学する。舞台の重心は膳所の商店街から、左京区の学生街へ。一人の登場人物の進路が、聖地の地図を描き直したことになる。
近江神宮が「一つの大会会場」という一点に集中する聖地だとすれば、成瀬シリーズの聖地は3年かけて刊行されたシリーズとともに、じわじわと面として広がっていった。同じ大津を舞台にしながら、二つの作品の聖地は、集まり方からして違う。
今週、成瀬あかりが大津に帰ってくる
この記事を書いている今、山下美月演じる成瀬あかりは京都・南座の舞台に立っていて、来週には彼女の地元・大津市民会館に帰ってくる。松竹製作、脚本・演出G2による舞台『成瀬は天下を取りにいく』は、2026年7月4日から東京・サンシャイン劇場で幕を開け、7月16日から26日まで京都・南座、そして7月28日・29日、大津市民会館で千秋楽を迎える。
原作と続編『成瀬は信じた道をいく』を組み合わせたオリジナル脚本で、主演の山下美月に加え藤野涼子、田畑智子らが出演する。大津公演のチケットは発売開始からほどなく完売した。2025年9月にはすでに東京・草月ホールで朗読劇として先行上演されており、映像化より先に「生の声」の形が選ばれたことも、この作品らしいと思う。
近江神宮は、やっぱり「かるた」の聖地だ
宮島未奈さん自身は近江神宮を旅行メディアの取材で「パワースポット」として挙げているが、この神社の「聖地」としての顔は、既に『ちはやふる』と大津市自身が公式に築き上げたものだ。だからこの記事では近江神宮を成瀬シリーズの聖地としては数えない。同じ大津市の中で、近江神宮はかるたと『ちはやふる』の聖地であり、膳所は成瀬あかりの聖地——一つの街に、由来の違う二つの巡礼先が、静かに同居している。
正直に言うと、こういう「棲み分け」を見つけると、こちらまで嬉しくなる。認定枠に入らなくても、街は自分の速度で複数の物語を抱えられる。膳所を歩くなら、まず一冊、読んでほしい。そして近江神宮に足を伸ばすなら、そこは今もかるたの選手たちが本気で戦っている場所だと知ってから、歩いてほしい。